国語は魚止めの滝か?最後に待ち受ける試練
2022年12月01日

国語は魚止めの滝か?最後に待ち受ける試練

国語のできない生徒は最後にふるい落とされる!!?

塾長は出講していた予備校でも「センター・共テ国語を舐めるな!中途半端な力では玉砕する!」と普段から声を大にして言ってきたのですが、今年の国公立志望者や私立の難関大学志望者の指導を終えて、改めてその思いを強くしました。高2生でも進学校では共通テスト同日模試を受けた人もいると思いますが、そうでない高2生や高1生、そしてお母さまも、問題を解かなくてもよいから共テの評論・小説・古文の問題を見てください。今風に言えば一目でその半端なさがわかると思います。さらに来年の2025からは大問として実用的な文章(資料問題)が加わりますので、時間的には更にきつくなります。

「社会問題?政治?関係ねーよ!」は下層民決定!

日本ではなぜ受験に奔走しなくてはならないのでしょう?少し話は大きくなりますが、明治維新によって急速な近代国家の形成を迫られた日本では、あらゆる階層から優秀な子弟を国家に役立つ人材として育成しなければなりませんでした。

そのためには学校制度を整えて旧東京帝国大学を頂点とする教育体系の中からそれぞれの才能・学力を持つ人材を国家社会のヒエラルキーの中に組み込み、国家社会全体を強化する必要がありました。

つまり、それまでの江戸時代では下層民であった農民や商人の子供でも頭さえよければ、いい学校を出さえすれば「末は博士か大臣か」という立身出世コースに乗って、国家の支配階級の一員となることが可能となったのです。これは戦後の新たな民主主義社会においても変わらず、いい大学を出なければ社会のヒエラルキーの上層には昇ることはできません。また、ヒエラルキーの上層には昇れなくても、社会の中堅階層に自分の位置を確保するためには学歴を持つことが不可欠となっています。現在の世の中は社会の流動化が激しく高学歴=高地位・高収入という図式には必ずしも当てはまらないケースも増えてきましたが、それでもある程度の学歴がないことには生きづらい世の中には変わりません。つまり、家に資産のない子弟は、学力を身に付けてしかるべき大学に入る以外に生きるすべはないと言っても過言ではないのです。当然、学歴はなくても芸能人やスポーツ選手などで暮らしを立てることも可能ですが、そうした世界で食べていくことがどれだけ大変かは親御さんもお子さんも分かっているでしょう。誰でも大谷や錦織や俳優や女優、アイドルやお笑い芸人になれるわけではないのです。社会の厳しさを身をもって知っているからこそ親御さんは教育熱心になるのですが、お子さんはそんな社会の厳しさなど、どこ吹く風で親子喧嘩が何世代にわたって繰り返されています。親御さんには悩ましいところです。

子どもというのは一般的に楽をしたがるものですから、「政治なんて関係ないよ、社会問題なんかどうでもいいじゃん」とか言ってろくすっぽ本も読まないお子さんも増えています。ところが上に述べたように受験の最終関門として国語が厳しく立ちはだかります。共通試験の大問1の評論は環境論、文化論、言語論とジャンルが多岐にわたっています。正直、内容は濃くてヘビーです。しかも制限時間が20分~25分です。これはもう普段から問題意識を持って高校の教科書をしっかり読まない層には歯が立ちません。「政治?社会?どうでもいいじゃん、楽しけりゃいいのさ!」はい、下層民直行です。たとえ理系でもセンターの国語で高得点できない受験生は理数ができても国立大学には受からないのでヒエラルキーの上層には決して昇れない、まして医学部なんかはとんでもない。理数の出来ない文系の受験生で国語ができない人は、最初から下層民決定というのがこの社会の現実です。もしかしたら支配層は端(はな)から「政治なんて関係ないよ、楽しければいいじゃん」という子供は下層民でよいと思っているのかもしれません。

では、どうしたら国語の力を子どもに付けさせることができるのか?

やはり、理想は小さいころから読書の習慣を付けさせることです。こどもが本を好きになるための方法は、幼児期の読み聞かせとか様々な方法があると思いますので是非、お調べください。受験との関係でいうと小学校高学年から本を読む習慣が付いていること、これが大切と思います。私自身の経験でいうと、小学校の低学年のうちはそんなに本を読んでいたわけではありません。絵本と漫画くらいでしょう。ところが小学5年生の夏に父親の転勤によって転校しました。

新しい引っ越し先ではまだ夏休み中でだれも友達ができません。外でひとりで遊んでもすぐ飽きてしまって「ああ、ひまだなぁ」と外に足を投げ出したまま廊下に仰向けにのそべっていたのです。

そうすると茶の間の本棚が目に入りました。本棚の中に少年少女世界名作全集というものがあって、その中の『十五少年世界漂流記』という本が目に入ったのです。それをなんとなく手に取って読み始めたら面白くて面白くてあっという間に読み終えてしましました。それから『小公子』『ああ無情』『三銃士』『トムソーヤの冒険』『車輪の下』などを片っ端から読み漁りました。これで本を読むことの面白さに目覚めた私は、中学校では吉川英治にはまって『三国志』『水滸伝』『宮本武蔵』などを読みふけったのです。中でも『三国志』では綺羅星の如く登場する英雄たちの虜になり、関羽、趙子龍、馬超などの活躍に胸を躍らせたものです。高校では現国の教科書が楽しく、太宰や坂口安吾などに夢中になりました。こうした読書体験のお蔭で語彙が豊かになり、漢字もスラスラと読め、慣用表現なども自然に身に付きました。

だから塾長はセンターや共通テストの国語もスラスラ解けるのか?とんでもありません。これだけなら単なる自慢話です。上のレベルでは易しい小説問題なら解けはするでしょうが、上に述べたセンターや共通テストの評論はこの程度の力では歯が立たないのです。なぜなら厳しい時間制限があるからです。

共通テスト国語は時間との戦い

2024年までのセンター・共テ国語は全体で80分、第1問評論、第2問小説、第3問古文、第4問漢文という構成でした。時間配分は単純に4で割れば1問に掛けられる時間は20分(実際には傾斜配分が必要です)。メチャクチャ厳しいです。

特に第1問の評論は20分ではプロでもキツく、第3問の古文も力不足の人にとっては無理ともいえます。古文は8点~15点しか得点できない現役生はザラにいます。

こうした認識が生徒にも学校関係者にも親たちにも広まっていません。それどころか「センターはマーク式だから簡単だ!」などという都市伝説さえ流布していたのです。私は実際に予備校で生徒に聞いたところ、数カ所の校舎で「聞いたことがある」と答えた生徒がいました。とんでもない話です。一度でも本気でセンター国語を解いたことがある人ならセンター国語がどれほど難しいか、身をもって知っているはずです。

共通テストの第3問に資料問題が追加、さらに苛酷なテストとなる!

ところが、なんと来年の2025年からは実用的文章(資料問題)が題が加わり、現代文が第1~3問、古文が第4問、漢文が第5問の90分となるのです。

センター国語よりさらに苛酷な試験になったと言えます。

こうなると共通テスト前の1カ月で予想問題を解いて練習するなどいうような泥縄方式の勉強では全く歯が立ちません。高校1年時から共通テストの傾向を意識して、
①いろんなジャンルの評論に触れながら問題意識を培う。
②小説問題や詩(平成30年度試行調査問題ではなんと第3問は詩とエッセイの合併問題です)に慣れながら漢字・語句や慣用句を普段から身に付ける。
③古文は20分で解き切るだけの文法力と読解力を養う。
④漢文は再読文字や句形(使役形、受身形など)の習得は当たり前のこととして、普段から漢字の持つ複数の意味を漢和辞典で調べる。例えば「易」は「エキ」と読めば「交換する」、「イ」と読めば「簡単である」などです。(蛇足ですが、よく「今年のセンターは「易化」したというのを「エキカ」という人がいますが、厳密には「イカ」です。簡単になるの意味の「易」の読みは「イ」だからです。)全く一朝一夕では身につかない内容です。結局、「東大を頂点とする旧帝大に合格し、ヒエラルキーの上に行く人材はこのくらいのハードルはクリアして当たり前」と国家が言っているような気がします。

文系も理系もオールラウンダーの秀才が求められているということです。だから医学部志望者はセンター試験では国語でも90%をクリアしなければ行きたい大学を受験することもできないのです。

入試で記述問題や小論が出題される理由

これからは、今までのような暗記中心の勉強だけでは、大学受験には合格できなくなる時代がやってきます。なぜならば、よくも悪しくもグローバル化の波は教育界や教育現場にも押し寄せます。そこで起こる変化は今まででは想像も付かなかったものになると予想されます。

そうした中で、今までのように与えられたことをこなし、指示されたことだけを実行するというタイプの人間は余り必要とされなくなっていくでしょう。

①大局的な観点から物事を考えられる人間。
②問題の本質を突き止め、それに本質的な解決を与えられる人間。
③普遍と具体との関係性を理解した上で、普遍的な問題の具体的な解決方法を探し出せる人間。こうした人間の必要性が高まってくると思います。そのためには普段から物事の本質を考える訓練が不可欠となります。これらに対しては、今までの暗記中心の詰め込み教育を受けてきた人間では全く対応できません。入試における記述問題の登場はそういうことも背景となっているのです。大学を卒業するには、実際はともあれ、建前上は卒業論文を書かなければなりません。

このホームページをご覧になっているお父さん、お母さんの中にも自分の卒論のことを振り返ってギョッとしている方もいるとは思いますが、大概の大学生は書籍やネットの情報をつぎはぎして卒論を捏造しているようなものです。もちろん中には卒論と呼ぶにふさわしい論文を書いている方もおられるとは思いますが。私も今年の入試で国立大学医学部に合格したT・K君と様々な大学の医学部の小論対策を行ってきましたが、生命の尊厳やヒポクラテスの誓いなどの理念的なテーマから、延命治療やデザイナーベビーの是非を問う倫理的問題などの医学的知識を仕入れないことには、対応は不可能でした。こうしたことにも関心を持ちつつ、医学部に合格するには受験でも高得点を要求されることを考えると医師になるということは、本当に大変だということを思い知らされました。これらは、こうしたテーマに関心がなく医師になることだけを目的にしている受験生では、決してクリアできない高いハードルです。そうした高いハードルたちを乗り越えてこそ医師への道は開けるのです。「小論が入試にあるなんていやだなあ」と思っていましたが、早くから医学部に限らず、他の学部でも入試で小論問題を課していた慶応大学には先見の明があったとは言えましょう。

これからの早期教育

こうした変貌していく入試に対応するためにはどうしたらよいのでしょうか?やはりまずは何といっても幼少期から読書の習慣を付けることだと思います。

入試国語の長い評論の文章を読みこなすためには、まず文章を読むことを苦にしないようにならなければなりません。

そのためには幼少期から読書習慣を身に付けさせることが大切です。

また、記述問題や小論問題では物事の本質を深く考えることが要求されますから、普段から本を読み、現在の世界や社会にある様々な問題に対する自分なりの考えを養っておかなければなりません。

テレビやネットでもそのような情報を仕入れることは可能ですが、やはり、本を読みながら時折目を閉じて、沈思黙考して考えを深めるような習慣が必要です。そうしないとどうしても書く内容が皮相なものになってしまいます。やはり、幼少期から本を読み、物事を深く考えるという習慣を身に付けることが不可欠となるでしょう。

中学入試はどう変わるか

このような大学入試の変貌に伴い、中学入試もまた大きく変わるものと思われます。(続く)